私が思う事(吉野)教育編1

2017年11月17日 23:14

「最近の若い者は~~」

世代が違っても、誰しも一度は言われたことがあるだろう。

何故、世代が違うと理解出来ないのか?

そこで、今回から数回に分けて「教育とは?」について考察してみよう。

 

そもそも教育とは「退屈になりがち」
何故か考えてみる。
「べき論」
「こうあるべきだ」という話が空回りしてしまう場合が多い。
その結果→退屈になってしまう。
もう一つは
「教育者の無責任な夢が乗っかってしまうから」
教育の現場はいろんな人が口出ししやすい。というのは誰もが絶対に一度は「生徒」だったり「子供」だった記憶があるから。「こういう風な学校であってほしい」「こういう風な学校であるべきだ」と言う。
*親もそう。子供に対して「自分はこうだったから、こうあるべきだ」「自分はこうだったけど、それは違うから逆を行くべきだ」など。
例)兄弟平等・不平等説。

でも、実際は家庭とか会社にあまり理想は求めない。自分が経営・運営している会社や、生活の場としている家庭みたいな所で理想的なものを求めない。
どちらかと言うと?
「理想の家庭はこうである」というのを提示されたら「それは理想だから」「そんなの何処にもないよ」と言う。
けど、学校に関しては「学校はこうあるべきだ」とかの理想論みたいなものが横行してしまう。なので話が退屈になりやすい。

「教育の定義」
子供を鋳型にはめて、社会の都合のいいように書き換える。
*鋳型にはめる・・・特徴のないものに作り上げる。

子供を自由に育てていいのであれば?
本を読ませる必要はないし、遊ばせる必要はないし、友達と一緒に何かさせる必要はない。それぞれの家の都合でやっていていいはず。子供が自由であるべきならば、親も同時に自由であっていいはず。「べき論」。そうすると学校や寺子屋制度発生以前に子供というのは、単にお手伝いをするべき小さい人間。それがまだ成長していないだけで、必要なのは「教養」や「教育」ではなくて、その家を成立させるだけの充分な能力があればいい。
例えば「洗濯」とか「掃除」が出来ればいい。
田舎暮らしで「数は数えられなくてもいいけど、ヤギを山の上に連れて行ければ良い」みたいな。

「子供を鋳型にはめなければいけない理由」
社会が要求しているから。
18世紀以降、子供は社会の中では「社会資産」になった。それまで、子供は親の物であった。
だから、親は子供を「売る」ことが出来た。嘆かわしいことだが、世界では今もある。子供が多いと他所に売られたり、働き手として都市に働かせに行かされたりしている。「親の為に働け」と言われたし、「農家の子供に生まれたから畑仕事をさせられた」
これが、世界中どこへ行ってもスタンダードな「子供」と「社会」のあり方だった。
ところがそうはいかなくなった。
産業革命のせい。
産業革命のお蔭で世界中に工場(こうば)が出来た。工場というのが出来ると子供達を一ヶ所に集めて教育することが必要となった。
ここで初めて「教育」が出てきた。
教育というのは、今は当たり前のように受けているから、人類、古代、昔からそういうものが受けれて当然と何となく考えてしまうが、「子供に教育を与えるという思想」が出て来て、まだ200年ぐらいしか経っていない。
何で200年前までは必要なかったのか?
それは、その家でしつけをしていれば充分だったから。
例)農家の家に生まれた人
朝、日が射したらみんな起きて、畑仕事に行く家に教育は必要ないから。そうじゃなくて、ちゃんと畑に行って「畑を耕してくれ」「働いてくれ」と親は考える。
5人も6人も子供を生んで、その中で体の弱い者は途中で死んでしまう。体が丈夫な人は最後まで生き残って、跡を継ぐのが子供と社会の関係だった。

ところが、産業革命が成立して世界中に工場が出来て、人間は人材にならざるを得なくなった。
人間→人材
人材とは「教育された存在」
母国語が読めて、簡単な計算が出来て、例えばマニュアルが読める。

テレビやラジオなどがない所で生活している人が、いきなり工場で働けと言われたらビックリしてしまう。
ルールもわからない。

野生児のような人達を机に座らせ、決まった作業をして終わりの時間になったら全員後片付けをして帰るという状態(人材の状態)に持っていかなければいけない→これが教育というものが社会の中で必要になった理由。

それまでは寺子屋みたいなもので良くて、その中で「読み書き」を教わったり、必要最低限の社会的常識があれば良かったんだけど、今の社会は「何で学校であんなに勉強しないといけないのか?」と言うと、それは全て人間が人材だから。
あんなに頭に詰めなければいけないのは、全て自分達が産業社会の中で働くのに「一人前になる為に必要」だから。

義務教育
よく親から「義務教育だから学校に行かなきゃいけないんだ」と言われた人も多いでしょ?
でも、それは大間違い。
義務を課せられてるのは「親」である。
親は子供を学校に「行かせる義務」
*「三大権利」と「三大義務」がわかればわかること。

何故やらなければいけなかったのか?
義務教育制度は産業社会が成立してから出来たもの。それまでは教育というのは「家庭」で行われたものだから。勿論、「貧しい家庭」とか「余裕のない家庭」では、教育なんかはほとんど行わずに親が子供に「縄の編み方」「ご飯の作り方」「稲の植え方」などを教える程度だった。
もうちょっと、階級(所得)が上がると、「家が商売やっている」「家が貴族だ」「家が武士だ」とそれぞれの家にはそれぞれの家の教育がある。親は子供に好きなように教育を受けされる「権利」があった。ところが、それでは産業社会に付いていけない。諸外国と戦う為には?
「戦争」という意味で戦う為でもあるし、産業の中で働いて「貿易」という意味で戦う意味もある。
国民全員が戦う為には?
親が子供に好きな教育を受けさせるだけでは、どうやっても間に合わない。
そうじゃなくて、「親の教育の権利」を取り上げて、国家が運営する学校に入れるという義務を「親の側」に課した。
これが「義務教育の本質」
義務教育と言うのは親が自分の子供を好きなように教育出来る。

例えば、アメリカでは「アーミッシュ」と呼ばれる17世紀ぐらいの生活をそのままやっている人達がいる。彼らは子供達を学校には行かせない。そういうキリスト教的でないような物の教えに凄く反しているから。
*アーミッシュ・・・ドイツ系移民の集団宗教

あとは「モルモン教徒の人達」も一般の教育に反対している。
*アメリカ合衆国に設立された「プロテスタントの一派」
なので、彼らはアメリカ政府と交渉して、子供達を学校に行かせずに自分達の家庭で教育する権利を交渉の末に勝ち取っている。

日本でも文部科学省に言えば申請は通るはず。特殊な事情がある。
例えば子供が「学校に行けない」などの悩みを抱えている場合は、義務教育である小学校、中学校の代わりに親が同じような能力を持った先生とか設備を用意すれば「家で教えても大丈夫」という許可すれば通る。
例えば「発明王のエジソン」は子供の頃から社会性が乏しくて、どうやっても学校に馴染めなくて、エジソンのお母さんがその地区の学校に申請して「うちは家で教えます。その為に本を何冊用意しました。私は~時間子供の教育にかけます」という申請書を書いて国から義務教育の「義務」を「家庭側」に引き取るということをやった。
それぐらい教育というのは、新たに19世紀と20世紀にかけて、国家が新しく国民に課した「税金」みたいなもの。
それまでは子供は好きなように出来た。いわゆる7歳とか8歳になったら、勝手に働きに行かせて、親の資産を増やす(お金を稼がせる)ことも出来たはずなのに、15歳までは国家が決めた教育を与えなければいけない、これは義務教育というのは考え方を変えれば、一種の「税金」みたいなもの。国民の所得(稼げたはずの)を奪うから。