私が思う事(吉野)教育編4

2017年11月20日 22:21

「帝王学で大事なこと」
王様の息子として生まれる息子は必ず偉大である必要がない。
これを勘違いしやすい。
20世紀21世紀の人間があまり進歩していないのは
「政治家が無能なのが悪いと考えしまう」
マキャベリが言っているのは?
トップに立つ人間がとことん平凡で無能であっても、その国が「運用出来る仕組みの方が大事」だということ。それには、政治家や君主をいちいち代えたりしない。世襲制が一番安全であるし、安定している。
もしそこに、問題があるならば周りのサブシステムである官僚であるとか、もしくは部下の方で対処すればいいという考え方。ただ、部下にあまりにも任せたり、家来にあまりにも権力を持たせたりすると、王様を倒そうとしたり、王様を形だけ置いておいて陰で権力を狙おうとする人が必ず出てくる。
そういう風にしない為には?

マキャベリの帝王教育の君主論とは
とことん愚鈍でごく平凡なバカでワガママで甘やかされて育った息子でも、人の上に立てて、人民を統治し自分より遥かに有能な野心にギラつく家来達をいかにコントロールするかという教育があった。
*これは古代中国だけではなく、古代日本にもあった。(帝王学)

今は企業の社長達は、自分のバカな息子に自分の家督を継がせようと思う人はほとんどいない。
何故なら?
国民教育を知ってて、市民教育になってしまったから。
市民教育の特徴は「競争」。「個性」と「競争」だから、その人間の個性を伸ばして、いかに競争させるかにかかっている。
だから、「適材適所」。強い者が上について弱い者を導くというのは、国民教育から市民教育を受けて頭がそっちに行く教育を受けてきたから。

*織田信長ですら、自分の優秀な子供に継がせようとしていた。優秀でない息子はサブの方に避けようとしていた。
マキャベリが考えていた「君主論」は日本では戦国時代には通用しなくなっていた。

最初
民(教育というよりしつけ)
*教育があって本が読めても算数が出来ても使いようがない。身分制度の社会だから、農民は農民のまま生きていくしかない。
本なんか読めても仕方ないし無駄。
*江戸時代の日本は特殊な状況だった。
「朱子学」とかいろんな学問の影響で可能な限り人間のスキルとか能力を伸ばそうとか道徳心まで伸ばそうという国民的な大ブームがあったもので、算数が出来る農民、やたら文字が読める百姓がやたら増えるという国になった。
人類の文化では特殊な例。

民→国民(教育が必要になる:国民教育)
典型的なのは戦前の日本の 教育。個人の抜け駆けよりも「調和」と国民の「統一」に価値観を置く。
それまで日本という言葉がほとんどなかったような場所にも「俺達は日本人なんだ」。新しい由来と結束の仕方を提示した。それまで藩でかたまることや島でかたまることはあったが、巨大な日本列島という概念と天皇というのがいて、その下で私達は同じ民族なんだと、かなりそれまで江戸時代の人達からすると、考えたこともないようなことを急に言われて「え~っ」てなった。何か山の向こうの言葉も全然違う(方言)し、食べる物も違う者とも「日本人という括り」なんだと、その括りの中でイギリスとかアメリカとかと競って行くんだとビックリすることを言われた。
調和と国民の統一により、その結果「国民教育の本質」というのは貧富の差を作らない。出来るだけ貧富の差を作らない代わりに全体主義的になるし、画一のものを与える。
つまり
全員に同じ事を教えて、全員に同じものを着せて、全員同じように反応するように仕向ける。
「日の丸を見たらありがたいと思え」、「天皇陛下の写真を見たら感動するように教える」。出来るだけ統一的、全体主義的な教育をする。それが必要だったから。
何故なら?
民の状態はあまりにバラバラで村意識が強くて、隣の村の人間は人間じゃなくて、まるで追い殺してもよくて、「穢多:えた」「非人」 という社会階層があったて、物凄くバラバラだった。
そういう風なバラバラのものを、いわゆるフランス革命みたいな形で「人間というのはみんな平等なんだ」という概念を日本人に一気に押し付けることは出来ない。
そうではなくて、全員に同じような考えを画一的に押し付ける。
同じ教科書を読んで、日本中の子供が「あいうえお」「咲いた咲いた桜が咲いた」など、同じ教科書を読むことによって、同一の価値観を与えた。
これが国民教育。
「服従心と団結心を子供に与えるのが目的」
民にはこれがあまりない。
服従心もあまりない。
すぐに年貢は誤魔化すし、侍達もすぐに分が悪くなると「落武者狩り」をするし、団結心も本当にない。
そういうような人達に均一の価値観、服従心と団結心を与えて、朝7時に起きて、8時になったらラジオ体操をして、9時になったら学校に行かせるという統一の同じことをやらせた。
僕らはこれを今戦後違うという風に否定している(拒否されている)ので、「何となく古くさく感じる」
服従心と団結心の段階を得ないと、なかなか次のステップには行けない。
「偉い人が考えた通りに動けば幸せ」という考え方がベースにある。
偉い人というのが問題で、その昔は王様がいて帝王学というのがあれば良かった。ところが明治維新の結果、日本中にいっぱいいた殿様がいなくなった。勿論、天皇はいるが政治にはあまり関わってくれない。そうじゃなくて、誰が偉い人になるのか?と言うと、
みんなの中から出てきた「お金いっぱい稼いだ人」「勉強が凄く出来た人」「旧帝国大学に行った人」が人々を支配するようになる。実は身分制度から自由制度になった時に物凄く社会に変化があった。「支配者」が自分達の中から生まれてくる。つまり、「エリート」という階層を持つことになった。エリートと言うのは、旧帝国大学で国民の中から優れた人を選び支配層にするという考え方。
つまり、支配者というのが世襲の平凡な男の子から優れた人へ大変化が起こった。その結果、政治家、官僚、財界人、産業人、軍人、知識層という6つのエリート層が生まれた。
つまり、国民教育がある社会というのは服従心と団結心で出来ている。それだけ国民を平等にして、全員を貧乏でなくす布告強兵策を行うと同時に特に優秀な奴をエリート層として育て上げて、国民自体を支配にあてさせる二重構造が必要だった。
ところが、段々うまくいかなくなる!
何故か?
あらゆる国民を豊かにして、平均的なレベルを上げていくと、徐々に徐々に凄い貧乏から上げていくと→みんな喜ぶ。
ところがある程度上がると?
今の中国のみたいに貧富の差がどんどん出てくる。
この貧富の差によって、豊かさにバラ付きが出てきてしまう。
みんなが物凄く食えない状態からみんながある程度食える状態になると、「凄くお金を持ってる奴」と「昔に比べたら確かに食えるようにはなったんだけど、まだまだ物を持っていない」という貧富の差がどんどんはっきりする。
社会が豊かになると?
その差の方が気になってくる。
その結果、「市民教育」が生まれた。
*日本では戦後辺り。*フランスではフランス革命あたり。
「市民教育」=「民主教育」
全体主義とか画一を否定している。
*ここで言うと、服従心と団結心を否定している。
大体、ある時代の教育は前の時代の教育を否定するところから始まる。例えば国民教育というのは、いわゆる教育を受けていない、文字が読めないようなまるで動物のような人間を否定する。だから、そういうのに比べれば着の身着のままで、ろくな教育も受けていない、文字も読めないような連中というのは、否定して自分達が統一、同じような教育を受けていることに誇りを持つ。
ところが、次の段階を過ぎれば?何て画一的な全体主義的な、みんなに同じものを押し付けるんだろうと国民教育を否定する。