私が思う事(吉野)教育編7

2017年11月23日 22:24

「友愛」

分配と共生

所有と独占という時代から、分配と共生の面白い見え方。

「アイドル」

アイドルとは何か?

「美人」と「社会資本化」

美人であったり、可愛いであったり、イケメンであったりするのは、これまで独占とか所有の対象だった。凄い美人がいたら?王様はそれを隠して「後宮に入れたり」、または企業ではそれを「受付嬢」にしたりして、自分達やより富める者、豊かな者が美人を独占しようとした。ところが、今はそれが社会資本になってしまった。つまり、子供が家庭内資本だったのが、社会資本化されて、「子供を家に置いといて教育しちゃダメです」、「学校に行かせなさい」と国が決めたように、美人って言うのを誰か偉い人、もしくはモテる男性が一人で独占するのではなくて、より社会資本化するようになった。

これも自分達の社会が「分配」と「共生」の世界に入りつつあるから。

では、美人が分配される、社会資本化される状態とは何かと言うと?

「アイドル」

アイドルと言うのは、アイドルでなくなるまで恋愛が禁止されている。何でアイドルの恋愛スキャンダルで怒るのか?「アイドルも人間なんだからいいじゃないか?」と言うんだけど、アイドルにしても声優にしてもジャニーズにしてもタレントにしても「彼氏がいる」「彼女がいる」「恋人がいる」ことを必死に隠している。ファンからすると、「いやいやそれは当たり前だろ」「それは売れなくなるからだ」と考えるんだけど、何でそれが売れなくなるのか?社会でタブーとされるのか?何でそんなに極端に数字に表れるぐらい売れなくなるのか?というと・・・

「社会資本だから」

社会資本であるからこそ、私達は「美しい人」「カッコいい人」「イケメン達」を優遇してあげているわけ。

だから、その代わり「人権の一部」を剥奪して、「お前達は人間じゃないんだから恋愛するな」と言っているわけ。

その代わり「美しいである」とか「カッコいいである」ことに関して、他の人間で思いもつかないような高い位置「ポジション」「喜びを与えてあげる」という風に言っている。勿論、それは向こうが「与えてくれ」と言っているわけではないし、望んでことではないんだけど、美人の社会資本化、アイドル化はどんどん進んでいって、今は美人に生まれちゃったり、綺麗に生まれちゃったりすると、普通に仕事してたら?周りから「何で何で何で」と聞かれる。「そんなことしなくても、もっといい稼ぎ方がある」「芸能界にデビューすれば良い」と親も考えてしまう。

昔だったら子供が芸能界に行くと親に言ったら?「あんな怖い世界辞めておきなさい」と言ったんだが、今は自分の子供が「人より足が長かった」、「スタイルが良かった」、「美しかった」りしたら、親の方が積極的になって芸能界に入れようとしたりする。

これを自分達は、「芸能界に憧れる軽薄な親がいる」と個別の現象で考えてしまうんだけど、全体の現象で観察したら?

美しい人に関して「社会資本化」が行われていると考えた方が府に落ちる。

その結果、支配層と言うのは?

世襲による王様からエリート、そしてお互いが戦い合って競争に勝ち残った者達、つまり選挙であったり、企業の競争で勝ち残った者達から美しい者達になっていく。

自分達は既に政治家というのは、若くて顔のいい奴を選ぶようになってるし、何かを発見したり発明したりする人は、他の人より美しくないと落ち着かなくなってきている。

支配者層が世襲からエリート層から競争で勝ち残った者から「美」というものに変わってきている。

 

それが社会の在り方として「正しいかはわからない」

 

正しい間違ってるかは人それぞれ。

そんなことを言い出したら、一番効率がいいのは?

マキャベリが言う通り「君主論」

いわゆる君主が人々を統治して、統治しきれない人間は「殺してしまえ」とマキャベリは言っている。

民衆というのは

・従わせるか?

・殺すか?

の二つに一つだ。出来るだけ従わせる努力をして、どうしても従わない奴等は、他の人間に影響が出ないように、さっさと殺してしまえとマキャベリは言っている。

そういう王様の世界から、ずっと世襲で王様を作るのを辞めて民主主義の国家にしよう。で、その中で偉い人の言うことを聞いて、みんなが戦争しようしないを決めたり、選挙をしたりしようという国民教育の時代から、そうじゃなくて個性と競争を認めて、その中から勝ち残った者がコントロール権を得ようという社会を経て、今自分達は美しい者を愛でて、美しい者にあらゆる権限やあらゆる社会的な見本みたいなものを与える。

だから、ファッションにしても「ファッションリーダー」というのが存在する。

そういうものを自分達が追いかけることによって、新しいこれまででは考えられないような社会システムを作ろうとしている。

おそらく、100年前、200年前の人からすれば?

何故、美しい人達にそんなに価値を与えるんだ?

その人達からすると、今の社会の人達は物凄く変に見えてると思うんだが、見た目至上主義社会であるから。

イケメンと可愛い人達が次の社会の「支配層」になる。

次の市民の形→「友愛民」

 

「リア充層」→「プラタニティな人達」

単純に言えばフェイスブックで繋がっているような人達が、他の人達から見たら羨むような人達と言うのがこの層になる。

 

新しい層に対するプラタニティ教育にはどんなのがあるか?

シェアハウスに住んでいて、繋がる人達への新しい教育制度が必要になる。これまでのような全員に同じ事を教えて、同じ本を読むような国民教育というのは成立しない。だからと言って、やみくもに全ての人達に対して個性を伸ばしなさい、そしてその個性を伸ばした所で周りの人達と競争しなさいというような、そして競争して豊かになりなさい、上昇思考を持ちなさいという市民教育も出来ない。

新たな教育というのは「脱恋愛」「脱家族」。それまで市民教育が持っていた、大事だ、これを失うわけにはいかないといった「家族の形から抜け出す」、「恋愛の形、人間関係から抜け出す」ことが重要。繋がりの社会では恋愛というのは「良いことの一つ」なんだけど、他の人間との繋がりを「奪ってしまう」悪い面もある。

それを冷静に観察出来るかどうか?

彼氏彼女と付き合うことによって、今の友達と疎遠になるぐらいであれば、だいたい若い人達は彼氏彼女を作らない方を選ぶ。

それは何故かと言うと?

「草食化」ではなく「プラタニティ化」してるから。それをみんなが理解出来ないから、彼らを「草食化」と呼んでるだけ。

脱組織・脱家族・脱恋愛であり、近くにいる人を大事にするという思考であり、おそらく「人間関係が全てである」という風に考える→プラタニティの人達

それは、ネットを利用した「目立ち力」、どれぐらい自分に注目を集めるのか?自分に共感してもらえるのか?というような力を与えるのが新しい教育の形。

市民教育は個性を伸ばして、個人が豊かになることを試行錯誤したように、プラタニティ教育というのは、いかに周りと繋がり繋がりの中で自分を目立たせて、自分を評価させて評価経済の中に落とし込めるのか?というのが新しい教育の形。それは「ブログ」「ツイッター」「ユーチューブ」なんかのネットの表現力を教える、それが新しい世界の「読み書き」になるだろう。それと同時にクラウドファンディングを「経済学」として教え、いかに多数の人達からお金ではないいろんな形で援助を受けて、それをもう一回社会に還元出来るのか?というのを子供達に教えることが、プラタニティ教育である。