私が思う事(吉野)

2017年10月27日 19:49

2.因果と結果

 

アラバマ州で肺がんの死亡者が「カリフォルニア州」と「アラバマ州」でどっちが多いか?というと。
カリフォルニア州は大都会。サンフランシスコとかロサンゼルスとかがある。
アラバマ州は何もない。山脈とかの山しかない。肺がんで死ぬ人はアラバマの方が多い。ってことはアラバマは山があって自然があって空気がいいけど、肺がんが多いと言うことは、空気が汚い方が肺がんにならないじゃないか?と結論付ける頭の悪い人がいる。
でも、実際はカリフォルニアに住んでいて、肺の病気になった人が「療養する」為にアラバマに引っ越したり、アラバマの病院にいて、そこで死んでしまう。
なので
結果として肺の病気でアラバマで死ぬ人が多いけど肺の病気になった原因はアラバマではない。

因果と結果を誤解している人が多い。

 

生活保護で金持ちと貧乏な人の格差が広がるのが問題と思っている人が多い。
Q:何故、問題なのだろう?
A:答えは全く問題ではない!

例えば、ビル・ゲイツとかの資産が10兆円だったとする。
資産が20兆円になったとしました。自分に何か問題が発生するのか?→何も問題は発生しない。
「感情」の話。
美人とかイケメンも同じ話。
美人だからイケメンだからタレントになりました。
美人だから金持ちと結婚しました。
それを妬むなら妬めば良い。ただ、その人がいなくなったとしても、ブサイクな人がタレントになれるわけでもないし、ブサイクな人が金持ちと結婚出来るわけではない。
自分は変わらない。
その人が死のうが何だろうが。
そういう現実

二人しか戦っている人がいなくて、一人がいなければ自分がもらえるという話ならわかる。

例えば有名人同士が結婚する。ファンの中には羨ましいと思う人も多い。
だが、その人がいなくても自分が結婚出来るわけではない。

その人がいなかったら「100%あなたと結婚します」ではない。


これも因果を誤解している。


物事の因果関係をちゃんと理解していないと、こういう誤解をしてしまう。

 

例えば、凄い金持ちの人がいて、その人がそれを失ってしまったとしても、自分にとっては何も得をしない。

「精神的には得をする」と思う人もいる。
実は何も得をしていない。
スッキリした気になるかもしれないけど、自分の生活には何もプラスになっていない。
むしろ、そこで精神的な快楽を得ているのはマイナスにしかならない。
例えば、100M走で自分が足が早くなって、いい結果を出したら嬉しいと言うのは、自分の能力が上がっていい結果を満たしたことによりうまくまわる。「もうちょっと速く走れるようになろう」とか「仕事頑張りました」「営業の成績が良かったからボーナスが増えました」→「嬉しい」というのは、自分の能力が上がることで社会に評価されるというのを続けていくことで、自分が幸せになる確率は上がる。

誰かがお金を失いました→「わぁ、楽しい」というのは、自分は何も変わっていない。むしろ、何に快楽を感じるべきか?というところが間違っている。
そこで、快楽を感じるということは?→自分の能力の成長に対しての快楽を棄てて、他人が落ちるところに快楽を感じている。
むしろ、それは「
「そんなこと知らねぇよ!」と思う人もいるだろう。

例えば「猿のオナニーの実験」というのがあって、踏むと気持ち良くなるように、頭に電極を刺してペダルを踏むと気持ち良くなるという電気信号を流すという実験がある。
猿は死ぬまでペダルを踏み続け、衰弱して死んでしまう。
それを見た時に
「猿ってバカだなぁ」と思うのか「あっ、それお前だよ」って思うのかの話。
要するに自分にとって何もプラスにならないことに対して、「気持ちいいから続ける」「気持ちいいから続ける」といっても、何も得られないで死ぬだけ。
なので、「自分が幸せに感じるもの」と「自分が実際に幸せになる為のステップを踏んでいるかどうか」をきちんと切り分けないといけない。

何が言いたいかと言うと、
例えば嫌いな奴が嫌な思いにあった→気持ちいいはわかる。人間として自然な感情。
ただ、それは実は自分にとって良くない感情の動きであって、それを追及することは結果として損をするという話。

貧富の差が不幸にしているわけではない。
正確には不幸だと思う「自分自身の考え方」が自分を不幸にしている。

例えば、自分がイケメンかどうか?とかで
世界で一番イケメンでない限り、必ず誰かと比べたらブサイクなわけ。
そこで、「自分がブサイクだと思って生きる」か「気にしないか」のどちらかの話。
お金に関してもそう。
年収500万円の40歳の人がいる。
じゃあ、500万円を超えて550万円で幸せか?というと、「もっと上の奴がいるじゃん」と考えたら不幸なんだけど、40歳で年収200万円の人からしたら?550万円は凄い幸せなわけ。
要するに

「何処に視点を置くか?」という話。

金持ちより貧乏な人の方が幸せについて。
アメリカの統計で年収1,000万円を超えると、そんなに「幸せ度」は増えない。
年収って増えていくごとに、幸せ度は増えていく。
だけど、年収1,000万円だと買いたいと思う普通の物は何でも買える。

そうすると、その後はいくら増えても生活していく上で、買いたい物はそんなに変わらない。

例えば、スーパーで「寿司を食べたいな」と思った時に「寿司が割引になってから買う」というのをやらなくて済む。別にスーパーの寿司は2千円ぐらいだから、「買っちゃえ」「買っちゃえ」となる。
なので、普通に生活する上でお金が足りなくて不幸を感じる機会と言うのは年収1,000万円でなくなる。
年収1,000万円の人が年収2,000万円になった時って、生活習慣、普通に生活する上で買えない物があるかないかは変わらないけど、あいつは俺より年収が高いとかフワッとしたことに対して「嫉妬」や「憎しみ」を持つんだけど、逆に年収1,000万円の人が年収1,500万円になっても生活は変わらない。

 

買いたい物は買えるというのは変わらないから。