私が思う事(吉野)
伝え方について
よく「口下手」だから「口には出さないが心では感謝している」と言う人がいる。
自分で伝えず、相手に分かれと言うのはエゴである。
何故いけないかというと?
例:料理を食べました。
「美味しかった」「不味かった」
これは、感想と言うより「評価」。
評価の部分はそこから先がなかなか進まない。
母親なり、彼女なり、友達なり「新しい料理(ラーメン、ハンバーグなど)作った」「これでお店を出そうか」みたいなことを言われたとして。
「これ、どう?」って言われた時に「美味しかった」「不味かった」と言うのは評価。
「どこが美味しかったのか?」「何で不味かったのか?」と言うのを言わないと、ご飯を作った人が困る。
何故なら?
改善点が見付からないから。
「美味しかった」「不味かった」だけでは、とっかかりが少ない過ぎる。
映画で言うと、「似てる作品を探す」
例えば、「まるで◯◯みたいに面白かった」という風に似た面白さの作品を探す。
自分の中で「面白かった」と思ったとして、その面白さには微妙に色味の違いがあるから。
「青っぽい色」とか「赤っぽい色」みたいなもので、「熱い面白さ」「冷たい面白さ」「スカッとする面白さ」「どんよりくる面白さ」といったように、面白いにも、ほんの少しずつ色味の違いがある。
その時に感じた「面白かった」という感覚の色味と、過去に面白いと思ったものの色味を比べて、出来るだけ似たものを探してくる。
そうすると、「どうだった?」と聞いてきた人は、あなたが挙げた色味の似た作品との関連性を勝手に見付けて「ああ、この辺か?」って聞いてくるので、あとは「そうそう」とか「いや、ちょっと違って」という風にして、言葉をどんどん付け足していく。
「デッサンの線を増やしていく」方法。
一本の線だけで何かを描こうとしても、なかなか上手く描けない。線の数を増やしていくと、見た人にも段々何が描きたいのか伝わってくる。
・面白かった時→「まるであの作品みたいに面白かった」
・つまらなかった時→「まるであの作品みたいにガッカリ感があった」
過去に見た面白かった、ガッカリした感覚の似た作品を探してくる。
自分だけの基準でいい。「似ている面白さ」「ガッカリしたポイント」を探してきて、パッと出すことで対話の癖をつける。